2019年8月21日水曜日

ほとけと異世界

8月20日に埼玉での仕事を終えて実家に泊まり、翌8月21日は東京でお休みをいただいて、山形に帰る前に以下の企画展に立ち寄った。


根津美術館、自分のいまの心持ちもあってか、いくつかの地蔵菩薩のお姿は心に染みた。「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」というお地蔵様にすがる気持ちは、いくつになっても、私の心のどこかに常にあるものだ。愛染明王についての展示はまとまりがあって良かった。久しぶりに庭園を散策し、思い切り蚊に血を吸われる。とはいえ、その後カフェでまったりとくつろぎ、良い休日になったと思う。

太田記念美術館は手狭ながら私の好きなスペースだ。たぶん、これまでの企画展のさまざまが秀逸で面白かったからであろう。今回の「異世界への誘い」もユーモラスな作品の数々が吉。こういうのは楽しい。平日日中帯にしては混んでいたけど、鑑賞が妨げられるほどではなかった。




2019年8月18日日曜日

セラピスト

最相葉月『セラピスト』(新潮文庫)を読了。

ひとにより様々な評価はあろうが、私にとっては『星新一 1001話をつくった人』は決定的だった。もちろん作品により好き嫌いはあるのだが、ノンフィクション作家としての信用とか信頼といったものにいちいち疑いを差し挟む要を感じなくて済むのも、この大仕事に感銘を受けたゆえであろう。

ただし自分にとって読み進めて行きやすいか、内容に没入しやすいか否かは、作品によりかなり異なる。『絶対音感』『青いバラ』は、正直読み進めるのに苦労した。理由は単純。最相葉月のノンフィクションは、彼女の問題意識、調査、考察、理解…等、思考のプロセスを読者がトレースさせられるように書かれているので、それに寄り添うことができれば、理解も容易で読書も心地良いが、そうではない場合は、作品中に他にあまり拠り所がなく、読み進めるのにどうしてもある種の苦痛を伴うからである。

そういう意味では本書は私にとってはたいへん読みやすく面白く、一部は感動的ですらあった。とくに第四章『「私」の箱庭』における、セラピスト木村晴子と全盲のクライアント伊藤悦子との箱庭療法のエピソードには大いに心動かされるものがあった。また、村上春樹が河合隼雄について語った以下のスピーチについては、つい最近に村上春樹のインタビュー集を読んでいたので、大変に得心がいくもので、こういう偶然もまた読書の面白さであろう。

物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。魂のいちばん深いところにあるからこそ、それは人と人とを根元でつなぎ合わせることができるんです。僕は小説を書くために、日常的にその深い場所に降りていきます。河合先生は臨床家としてクライアントと向き合うことによって、やはり日常的にそこに降りていきます。河合先生と僕とはたぶんそのことを「臨床的に」理解し合っていた―そういう気がします。

いまは箱庭療法も風景構成法もあまりおこなわれない。現代における精神医療やカウンセリングをめぐる環境が激変したからで、いちおう教育現場に身を置いている私としては、本書の終盤で述べられるそれらのことの一つ一つに大いに得心がいったし、参考になり得るものが多かった。上記、村上春樹の言葉とあわせて、あとがきに書かれている以下のことは、これからも心に留めておきたいと思っている。

だが、彼らの仕事を取材するうちに、言葉にしない世界の深さ、言葉によって意味を固定しないことのもつ意味について考えるようになった。言葉によって因果関係をつなぎ、物語をつくることで人は安住する。しかし、振り回され、身動きさせなくなるのもまた言葉であり、物語である―。

私はこれらのことを養老孟司の『唯脳論』あたりから眺めるようにしていることが多いような気がするが、それが正解かどうかはわからない。ただ、これまでの自分の人生を振り返るに、いくつかあった困難のたびに、言語化できない(自分の内的な)世界やその物語性について、それを自然と受け入れることができたことがプラスに働いてくれていたように思う。

自己理解のためにもおおいにおすすめしたい一冊。

2019年8月15日木曜日

安藤・北斎・メスキータ

終戦の日の8月15日、ふと自分ひとりのフリーな時間をもらうことができたので、気持ちのおもむくままに以下の企画展をはしごした。


安藤忠雄の企画展はMeWeでフォロワーさんから教えてもらった。ついぞ建築には野次馬的な興味しか持ったことがなかったし、国立近現代建築資料館の存在をそのフォロワーさんの投稿から初めて知った次第。企画内容が面白そうだったので、即行動に移した。行ってみれば、周辺は子供の頃から知っている場所。湯島天神にほど近く、旧岩崎邸庭園のお隣であった。専門家の好奇心を満足させるであろう図面の数々、私のようなど素人が見ても大変面白い模型の数々、写真、イラスト…etc。ここは楽しかった。合同庁舎の正門から入れば入場は無料、事務室に行けば図録も無料で入手できる。安藤忠雄の講演ビデオもロビーで観られたりとか、コスパ高し。思えば中学生の頃、製図が好きで、学校から区の展覧会に出品してもらえたのは、内心のちょっとした自慢だ。図面を作成する仕事には就かなかったが、社会人になりたての頃、製図道具の数々を職場に揃えては、ひとり悦に入っていたことなども思い出した。

すみだ北斎美術館は初訪問。あれも北斎、これも北斎。以前ブログにも書いたが、私は北斎が少々苦手だ。(→ 過去記事)その原因をかつては北斎の作品がもつ強烈な個性に求めていたような気がするが、今回、どうやらそれだけではないらしいということに気がついた。例えば北斎の美人画、あるいは動物画。私はそれらを見ると、どうしても北斎の対象への興味と愛情が分裂しているように感じてしまうのだ。対象への絵描きとしての興味、それは、解剖学的というか、何ものも全てを暴かずにはいられない好奇心の発露とでもいおうか… そういうものが、対象への愛(愛情)に勝っているように感じられてしまうのだ。私のそういった印象は大きく的を外しているのかもしれないが、その上手さに感心し、その巨大さに打ちのめされることはあっても、やはり北斎の作品に私が心を寄り添わせることは今後もないのではないか…そんなことを考えた。館内はそれほど寛げる構造にはなっていないので、再訪するかしないかは今後の企画次第であろう。

メスキータ展は、質、量ともに圧倒された。それなのになんで図録を購入しなかったのだろう。(ネット販売が休止になるほど、図録は好評らしい。)100年も前の作品が新しい。まったく古びてない。「かっこいい」という形容詞を使っても良いと思う。私はこういうカッコ良さに憧れる。自分の身の回り、自分の佇まい、自分の生き方…その他諸々を、こういうカッコ良さで満たしてみたいという憧憬を抱く。まぁ無理なのであるが。ひとからは縁起でもないと言われるが、自分に残された時間というものを意識するならば、無駄なものはいらないし、何事もシンプルにしていくのがカッコ良さにもつながっていくのであろうと思ったりもする。

台風の影響で天候不順な一日であったが、幸いにして傘を差すことなく移動することができた。そういう意味でもラッキーな一日だった。




2019年8月12日月曜日

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです - 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(文春文庫)を読了。

正直、村上春樹の小説にはあまり興味はない。いまのところ。世間での評価とか評判というのはとくに関係なくて、いまはもっと他に読むべき、読みたい本がたくさんあるということと、いまの私はそれほど彼の小説を必要としていないだろうという勘みたいなものがあるというだけで、論理的な根拠があるわけではない。

一方、村上春樹の考え方、人生観や仕事へのスタイル、社会問題へのスタンスといったものには共感をおぼえることも多く、久しぶりに本書を手に取ってみた次第。

購入したのはいつ頃のことだったろう?かなり長いこと職場に放置していたように思う。文庫化される前の単行本も購入したはずだが、そちらは、途中で飽きて…というか興味を失って(同じか)放り出してしまったように思う。買ったら読まなければ、とか、読み始めたら最後まで読まなければ、という考え方は採らない人間なので、ここで全編を読む気になったのも何かの縁、巡り合わせであろう。何事もこうした流れ(自分の気持ちも含めた)には逆らわない方が自分にとってのゲインは大きいような気がしている。

村上春樹は、このインタビュー集でも繰り返し語っているが、創作や知的活動と不可分な身体性についての言及が多い人だ。たぶん、根っこのところで、養老孟司が語っていることと大いにつながっているような気がするが、得てしてこういう主張は日本のある種の知的エリートの感情を刺激するらしく、そういう人たちからは頗る評判が悪い。自分の知的行為、思想、思索といったものが、肉体という容れ物に著しく制限を受ける… あるいはその拘束・限界から逃れることは不可能である… という主張・考え方が我慢ならないのであろう。まぁ、しかし、小説世界、物語世界のメタファーといったものも、その作者の身体性と大いに関係・連関があると考えることの方が、私には自然なことと思えるのだが。

というわけで、本書を読了し、短い夏休みに入りたいと思う。

2019年8月7日水曜日

希望荘

宮部みゆき『希望荘』(文春文庫)を読了。

『ペテロの葬列』のラストには相当驚いたが(→ 過去記事)、結果的にはこの結末こそが「探偵」杉村三郎を形作っているといっても過言ではないくらい、シリーズ化には貢献しているように思う。杉村三郎という「いい人」に陰影と奥行き感を与えているのは、まぎれもなく『ペテロの葬列』のラストだし、それにより、「現代社会における私立探偵」という存在にリアリティを与えることに成功していると思う。

宮部みゆきは好きな作家だが、どれもこれもというわけではない。この『希望荘』には『火車』を読んで以来感じられるある種の「切なさ」が胸に迫ってくるところが良い。これは私の好きな宮部みゆきだ。ひとの幸不幸は紙一重だ。善人か悪人かを決めるのは、簡単なようでけっしてそうではない。満面の笑みをたたえているひとも、人知れず毎夜慟哭しているかもしれず、ささやかな幸せの足もとではすでに腐臭が漂っているかもしれない。手の届かぬものを追い求め、無駄と知りながらも必死に逃れようともがき苦しむ…。そんな市井の人びとへの宮部みゆきの視線は冷徹でもあるが温かい。

個人的に嬉しいのは、シリーズ化した舞台が私の生まれ育った街あたりというところ。もちろん仮想的なものではあるし、それほど描写が具体的なわけではないのだが。それでも私が郷愁を感じるには十分であった。(高村薫『マークスの山』の第一現場は描写も具体的で小中生の頃からよく知っている場所だったが。)

この杉村三郎シリーズ、いまも好評で続いているようなので、また購入して読みたいと思う。(本書は年末年始休みに読もうと思って買って、読み終わってみればもうすぐ夏休みという…。)